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潘寧:ユニクロは如何に中国で成長したか


 

1投資家がアパレル創業者との会話の中で、いつもある基準となる企業の名前を揚げているーーユニクロ。

日本のアパレルブランドのユニクロ、本社のファーストリテイリングは先日正式に発表し、当社は3月5日に香港預託証券(HDR)の形で香港証券取引所に上場する。今回の上場は新株券を発行せず、新たな資金調達も行わない。その目的は、上場を通じてユニクロの中国市場における知名度アップを図り、中国市場における影響力を高め、中国が当社にとって最大のマーケットであり続けることを狙ったものだ。

ユニクロの日本における低価格戦略は中国市場では水が合わなかった。副社長の潘寧は販売戦略を練り直し、購買客を中産階級に設定し、日本の先進的なサービスと小売ノウハウを活かし、8年で中国はユニクロにとって最大の海外マーケットとなった。

ユニクロ中国に関する数字はこうだ。2013年11月末まで、ユニクロの日本国内店舗数は856店舗、海外は512店舗、その中、中国市場はユニクロにとって最大の海外マーケットで、270店舗まで店舗数が増え、2020年に1000店舗まで増えると予測されている。

昨年9月30日、ユニクロは上海で世界最大規模の旗艦店をオープンさせた。8000平米あまりの床面積は東京銀座にある5000平米の旗艦店と、ニューヨーク5番街にある旗艦店を上回る。

ファーストリテイリングの最高執行責任者副社長、迅銷中国商貿有限公司CEOの潘寧は、彼がユニクロの中国事業の責任者として8年間で如何にしてユニクロを中国に根ざし、徐々に中国をユニクロの最大海外マーケットに育てたについて語ってくれた。

以下は潘寧氏の口述実録:

 

柳井は当時ただの田舎会社の社長に過ぎなかった

私は学校卒業してすぐユニクロに入社した。私は日本に留学し、商学部修士課程で金融と経済を専攻した。ビジネスや経営に関する勉強をしたのだから、どこかの会社に入って、教科書で覚えた知識が実際に通用するかどうか試したかった。丁度ファーストリテイリングが店長を募集していたので、行って見ようと思った。まさか、面接試験の面接官が柳井さんとは思わなかった。それは1994年、当時ユニクロはまだ小さな会社で、売上はいまの中国市場の売上の1/3にも満たなかった。当時、私もファーストリテイリングとユニクロを知らなかったし、本社が山口県にあるのも知らなかった。なぜなら、私はずっと東京に住んでいたから。

私は山口県まで行って面接試験を受けた。面接で柳井社長に会って、すごく衝撃を受けた。中国的な言い方をすれば、当時彼はただの田舎会社の社長で、田舎で生活し、周りは山と畑しかない。しかし、そんな田舎にこういうすごい会社があるとは正直驚きで、彼が語る夢はとてつもなく壮大で、口を開けば、立派な中小企業になるという話ではなく、世界最大の会社、世界一の会社にしたいので、あなたの力を貸して欲しいと言っていた。

私も不思議に思った。彼は私にこう質問した。あなたは10年後何をやりたいのか?私は社長になりたいと答えると、彼は怪訝な顔をした。日本では終身雇用制で社長になりたいと思うサラリーマンの人は殆どいないからだ。会社で真面目に30年、40年勤めれば、死ぬまでの保障が得られる。

彼は私が社長になりたいと聞いて、すごく感心し、じゃあうちにおいで、ここにはいっぱいチャンスがあり、あなたが社長になれるかも知れないと言ってくれた。その時、私も素直だったので、これはチャンスかも知れないと思い、入社を決めた。

私は店員から始めた。ほとんどのひとは信じられないかも知れないけど、修士が店員になり、店舗の掃除と服を畳む毎日。そんなことやって大丈夫か?実際、私自身もそんな疑問を持ったことがあった。入社3ヶ月後も、毎日が清掃と“いらしゃいませ!”を繰り返すだけ。私はいつも自分に問い掛けた。”こんなことやって将来大丈夫か?”

あの時代はよく柳井正を見掛けることができた。私は彼が自分の言葉に責任を持つ人だと感じた。しかも非常に率直で、思ったことをすべて言ってしまうタイプだった。

私は半年店長をやったあと、店舗運営部門で1年ほど働いた。しかし、あの時の仕事はとてもキツく、それでいまの盤石な経営基盤ができあがった。当時のことを社員に言うと、みんなビックリする。

いまのユニクロは1店舗だいたい1000平米でスタッフは30人から40人。当時の店舗は約500平米で通常勤務のスタッフはわずか3人しかいない。

当時、お客様はそんなに多くはなかったが、それでも月の予算は100万元(1600万円)あまりで、そんなに低くはない。あの時、我々の商品の品質はあまり良くなかったし、ブランドもまだ確立されてなかった。私はあらゆる業務を経験した。私はよく社員に言う。私はミシンを縫うスピードはあなたたちに負けないし、服の畳み方もあなたたちよりずっとうまい。これが基本なのだ。

 

香港進出で成功の手応え

会社が大きくなるに連れ、新たな業務が生まれ、新たな挑戦が始まる。私が店舗運営を経験したあと、長い間海外でサプライチェーンの構築に奔走した。私が中国人なので、担当業務の大部分は中国大陸でのサプライチェーン構築だった。約6年間経験したあと、中国大陸に進出して間もないユニクロのために販売を担当した。

我々は2001年に中国進出を果たした。当時中国はまだWTOに加盟していないので、外資企業の中国進出を許可しなかった。そこで中国国内のサプライヤーと提携する形で小売店鋪を展開した。当時のブランド名もユニクロだった。商品生産の担当を経て、本社に戻ってM&A業務に携わった。

私が中国市場の責任者になったのは2005年。当時、香港市場はまだ開拓中だったので、私は香港支社のCEOに任命された。香港ユニクロの店舗展開は非常にうまく行った。2005年9月30日にオープンした店舗だ。

香港での成功に日本の本社も驚いた。香港の経常利益は日本のよりも高かった。香港の販売価格は日本のより高い。ただ、私は一方的に高値を付けるのではなく、消費者に受け入れられる範囲内で販売価格を決めていた。どうすれば消費者に受け入れられるのか?それは、消費者に最大の満足度を与えること、素晴らしい買い物体験してもらうことで受け入れてもらうしかない。

要するに、ユニクロ香港の成功は、利用客の体験、サービス、きめ細かさを重視した結果であり、最も重要なのはブランドのターゲティングを正確に定義できたからだ。

あの時、もし香港でユニクロを大衆向けブランドとして展開したならば、きっと地元ブランドとの競争に巻き込まれていた。地元ブランドとの競争になると、自分たちの強みを最大限に発揮することはできなくなる。グローバルブランドを目指していたから、その観点から私はユニクロを香港の地元ブランドよりも高級なブランドとしてポジショニングを決め、顧客も中産階級をターゲットに設定した。

香港と中国大陸のポジションニングは同じ中産階級だが、やり方は少し違う。香港と大陸には大きな違いがある。香港は親日で、現地の人々は日本製品にすごく魅力を感じていた。恐らく、香港の主力消費者層は小さい時から日本のアニメを観て育ち、日本のゲームで大きくなり、日本に対して特別な感情を持っている。そこで私はメイド・イン・ジャパンをブランド価値の最大化に活かそうと考えた。例えば、宣伝にしても、ユニクロのポスターはほとんどが日本語である。中国大陸では中国語を使わなければならないので、こんなことはできない。香港ではできる。それを禁止する法律がないので、私はこれをうまく利用した。

あの時、会社の同僚たちは皆不思議に思っていた。彼らいわく、元々我々は日本から来ているし、わざわざ日本語を使ってアピールする必要はないのではないかと。私は彼らに説明した。私がずっと香港にいるので分かることだが、香港人にとって、日本語を口にする度、自分の価値が少し上がった気になる、これがとても重要だ。

中国大陸だと、国民感情や制度規制上の問題などで、こんなことはできない。だから、違う方法でやらないといけない。大陸の消費者はまだ本当にいいサービスを受けたことがない時に、我々は接客サービスに力を入れた。我々には”ユニクロはサービスである”というスローガンがある。サービスを通じてお客様を驚かせることで、お客様が我々のブランドに対するイメージが変わり、我々のブランドは本当に価値あるブランドだと感じる。私は北京で育ったが、北京には昔からある王府井百貨店と西単商場がある。そこでは店員が平気で商品を投げる。小さい時に経験したことがいまでもはっきり覚えている。

 

ユニクロの中国販売価格は日本より10%〜15%高い

香港での成功は、会社の中国戦略を見直すキッカケとなった。私の前任は林晨で、彼も中国人で、当時は中国大陸の責任者だった。私は引き継いだのは2005年末で、当時大陸には9店舗あった。2店舗は北京、6店舗は上海、1店舗は杭州にあった。私が最初に与えられた仕事は北京の2店舗を閉店し、上海市場に集中することだった。

当時のユニクロは長らく大陸で行き詰まっていた。原因は日本での経営方針をそのまま中国でやろうとしたからだ。より多くの人により安く商品を提供する。しかしこれではうまく行かない。我々には関税の問題があったからだ。

中国の関税は非常に高い。17%の増値税のほか、海外で仕入れる原材料にかかる関税も高く、それが原価を押し上げている。

この問題を解決するため、我々は多くの商品にロゴを採用したり、中国式デザインにしたり、使う生地も海外商品とは異なるものにしたりした。なぜそうしなければならないのか?原価を抑えるためだ。

しかし、値段を安くして売ってみると、あることに気付く。我々は一番安いのではなかった。多くのメーカーはもっと安い値段で我々に競争を仕掛けて来る。このような競争の結末は共倒れしかない。

このような厳しい状況に直面し、私は考え続けた。問題の本質は一体どこにあるのか?結局、気付いたことは中国消費者は価格戦争を求めていなかった。確かに人々は値引きすると喜ぶ。しかし、もっと重要なのは、商品は彼らに何か付加価値を与えたかである。これはとても重要だ。

当時まだ海外旅行はいまのように簡単に行ける時代ではなかった。そこで、我々は海外の小売で進んでいるものを持ち込むことにした。例えば接客サービスなど。これは中国消費者にとって衝撃的だった。彼らはそれに惹かれ、接客が店のセールスポイントになった。

当然、日本式サービスを中国に持って来るには代価が必要だった。我々はブランドのポジションニングの再定義を行った。日本ではユニクロはすべての消費者がターゲットだったが、中国では中産階級以上のセグメントにターゲットを絞った。私が決めた戦略に販売価格を日本のより10%〜15%高くするというものだった。それはいまでも守られている。

ユニクロでの経験は、まるで創業しているようだった。すべてゼロから始まった。香港もゼロから始まった。台湾もゼロから始まった。大陸も社員わずか30人からいまの社員1万人の規模まで大きくした。いま中華圏での社員総数は約1.6万人で、これほどの大企業は8年前はゼロだった。これは創業ではなくて何という?私はとても充実した日々を送った。

この視点からも、私は柳井正から最も影響を受けた言葉はこれだった。起業家精神で仕事に取り組め!一部の人や目先の利益に惑わされることなく、もっと長期的で大きな目標を目指して取り組め!

 

元記事:http://new.iheima.com/detail/2014/0214/58632.html

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