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あなたの知らない上海の昔


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上海は南宋咸淳3年(1267年)に鎮として誕生し、明嘉靖32年(1553年)に築城された。1842年アヘン戦争後、上海港が外国船に開放されたことで、20世紀前半にアジア屈指の国際都市として成長し、今日再び勃興を遂げる。上海の大半のエリアはかつて海だった。上海の変遷はまさに海が陸に変わる歴史である。

 

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▲初期の上海は、地図の灰色部分だけの小さな街だった。

 

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▲東門、別名宝帯門。黄浦江埠頭に最も近い城門である。

 

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▲旧北門、別名晏海門。上海の北西に位置し、城門の外に木造の橋があり、城外の租界に繋がっている。

 

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▲西門、別名儀鳳門。上海と外部を繋ぐ主要道路である。

 

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▲新北門、別名障川門。1860年に建設された城門で、1890年になると、壕の水はほとんどなくなり、壕を行き交う船の姿も消え、城門も店などで塞がれ、城壁は既に淘汰されたことを表している。

 

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▲小北門、別名拱辰門。1909年に旧市街と租界を結ぶために新たに開通した道路。この城門はほかの城門と比べるとかなり狭い。

 

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▲ボロボロになった城壁の上で、形だけ城の外に向いている古い大砲、かつての威厳はすっかり失ってしまった。

 

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▲1843年より前、黄浦江沿岸には静かな田園風景が広がっていた。

 

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▲1880年の外灘。かつてあった鉄道は広い道路に変わり、華やかな洋館が道沿いに林立し、西洋の馬車と日本から来た人力車が道端で客を待っている。

 

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▲1888年の外灘。川沿いには賑やかな光景が広がっている。

 

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▲日清戦争前夜の外灘は平和で繁栄した街だった。黄浦江に停泊する3本マスの船には大きな煙突が見えているので、当時最新の蒸気機関を搭載していることが分かる。税関ビルの右に見える尖った屋根の建物は1893年に建てられたトリニタ・デイ・モンティ教会である。

 

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▲上海で有名な南京路は当初外灘から競馬場まで続く小さな道で、“花園弄”と呼ばれた。1865年工部局が道幅を広げて、“南京路”と命名した。写真は1893年の南京路外灘口。

 

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▲1901年7月、醇親王が清政府を代表してヨーロッパを訪問した。写真は南京路を行進する醇親王一行の行列。

 

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▲19世紀末、上海は中国最大の客船ターミナル基地だった。ここから北米、ヨーロッパ、オーストラリア及び東南アジアなどに直通する客船が出航する。国内は北と南の各沿岸都市と、長江沿岸の漢口、重慶などの都市に行くことができた。写真は1904年の上海十六舗埠頭、ここは上海または中国最大の埠頭で、上海が港湾都市として栄えた証でもある。

 

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▲1893年に建てられた税関ビルはイギリス教会様式の建物で、5階ぐらいの高さにある大きな時計が四面に配置されている。外国人はイギリスの“ビッグベン”をもじって、これを“大清時計”と呼んだ。

 

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▲租界のメインストリートである南京路には、多くの店舗が並んでいる。牌楼式の建物は中国情緒たっぷりで、遠くに見える西洋風ビルとは好対照。道路の真ん中に路面電車が走っているが、スーツと革靴で身を固めた外国人は好んで人力車で外灘に行く。

 

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▲人力車を曳く車夫はこの黄埔灘路でたむろしていた。資料によると、当時上海にいる車夫の数は8000人を超えた。人力車はいまのタクシーと同じで、上海市民の主な交通手段だった。

 

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▲20世紀に入ってから、外灘には豪華な欧米様式の建物が増え始めた。写真の左側にあるのは1910年に完成したイギリス総会ビル。これを機に世界各国の建物が外灘に建てられ、上海の繁栄はそこから始まった。

 

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▲1929年の外灘。おなじみのビル群はほぼ完成し、車はすでに重要な交通手段として街に登場した。右にある自由の女神像は日本軍によって壊されてしまった。

 

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▲これは20世紀30年代の福州路。いまでも外灘から福州路に入って歩くと、道の両側に文房具などを売る店がたくさん並んでいるのが見える。ここはかつて美術学生が紙や筆を買うために通った場所だが、いまでは道沿いの店にはあまり客の姿が見えない。

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